キャリアコンサルタントとして関わった父の旅立ち

皆さま、ごきげんよう!
8月に入り、関西ではお盆の季節となりました。
実は、今年の2月に大好きだった父が永眠しました。
新盆を迎えるにあたり、父が初めて帰ってくるんだなあと、
思うと同時に、いつも傍に居てくれているような
気持ちがしています。

幼い頃から、海水浴やプールへ連れていってくれたり、
読んだ本についての感想を語り合ったり。
意見のぶつかり合いもしましたが、ホンネで語れて
心から信頼していました。

仕事をリタイアしてから、眼に緑内障を発症。
家に引きこもりがちになり、
社会との関わりを自ら断っているかのように見えました。
趣味だったスキューバダイビングもパタリと辞め、
道具もどなたかへお譲りして、近所の人たちとも
交流せずに、ひっそりと、隠れるように
暮らしておりました。

会話するのは、一緒に暮らしている母と
近所に住んでいる姉家族のみ。

社会的な関わりを断っているからでしょうか。
晩年は、認知症の症状が加速度を増しました。

「デイサービスへ行って、同じ年代の方とお話が
出来るようにしては?」
ケアマネさんや訪問してくださる看護師さんからの
ご提案もありましたが、頑なに拒絶しました。

「なぜ、父はそこまで、社会との関わりを
断ってしまったのか?」
昨年の今ごろ、父が余命宣告を受けたことを
きっかけに、私は、考えたことがあります。

父の職業は、神社へお勤めをする神官でした。
高度成長期、バブル期を経て、企業に
お勤めされている同年代の方が、
会社員であったことで、
自分のことを他者へ説明することが
出来るお年頃。
父は、自分の職業を言葉で表現することが
出来なかったのではないか
と、仮説を立てております。

「お仕事は何をされていたのですか?」
と、リタイヤ後の人同士の会話でも
「◎◎会社の会社員でした。」「公務員でした。」
でもない表現となります。
もし、「神官でした。」
と、言っても、神官という職業が周囲の方が
充分に理解されているとは、限らないのではないかと。
「毎日、どんなことしてるんですか?」
「何があなたの給与の原資なんですか?」
と、尋ねられたかもしれません。

それは、尋ねてくれた方は、興味関心を
持ってくださっていたとしても、
父にとっては、どこかに、
「理解してもらえない」
という寂しさや怒りを持っていたように
私は、感じます。

他人さまと一緒に居る時間は、
自分には、必要ない。
自分が創り上げた家族が
周りに居てくれたら、それで充分。

そんな気分になったんだろうなあと。

父の訃報を聞いて、朝いちばんの
新幹線で実家に戻りました。
冷たくなった父の顔は、
あの、ハツラツとしていたものではなく
ガリガリに瘦せこけた老人でした。
お風呂にも入れてもらうことを拒絶し
たいそう、むさくるしい風貌でした。

父に対して、私は何が出来る?
自分で立てた仮説通りだとしたら、
どんなことで、父へ貢献できる?
父が生きていた証を示すのには、
どうしたらいい?

自分の頬につたう涙を感じながら
頭がグルグル動きました。

神道形式の葬儀では、
故人の略歴を神官が読み上げて
くださいます。
私は、神官に渡すために、
父が生まれたときから
この世にいなくなるまでの道のりを
綴りました。


父を語るのには、
仕事だけじゃない。
学歴だけじゃない。
趣味だけじゃない。
家族だけじゃない。

父のキャリアを棚卸ししました。
父が言語化できなかったであろうことを
精一杯綴りました。
「私は、わかっているよ!」
という気持ちを込めて。

そして、もう、これは無理なのですが、
もし、時計を巻き戻せるのであれば
父が仕事をリタイアしたときに
「自己紹介するときに用いてはどう?」
と、提案できるように。

私は、娘であるのと同時に
キャリアコンサルタントとして、
父の人生をとらえることが出来ました。

これは、自己満足でしかありません。
「もし、私が父が元気なうちに
キャリアコンサルタントとして
関われたら・・・」

ときどき、思い出しては、唇を
嚙んでいる私です。

長文になりました。
お付き合い、ありがとうございます。
父の旅立ちに関わり、
なぜ、自分がキャリアコンサルタントの
勉強を始めたのかという原点も
垣間見れた気がします。

すべての出来事は、繋がっているんだなあ
と、つくづく実感します。


\日々の情報はこちらでチェック!/

自己理解が深まる”私の謎度チェック”配信中!

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
目次